「ははっ・・・見放されちまったか。当然だよな」
 自室でベッドに突っ伏して、恭介は自虐気味に笑う。
「・・・馬鹿みてぇ・・・。俺の覚悟なんて、こんなもんだったのかよ」
 罰、なんだと。
 あの世界の残滓に手も差し伸べられない自分が受けた罰なのだと。
 そう思って。
 なのに。
「くそっ、何で泣いてんだよ、俺は・・・。こんなの辛くねぇよ・・・。辛くなんか・・・」



 猫の中庭。
 鈴は猫達によじ登られながら、全く気にしていないように座り込んで、考え事に没頭している。
「・・・おねえちゃん?」
 その鈴の顔を覗き込むように、いつもの少女が姿を見せていた。
 その時初めて気づいたように鈴は目を見開いて、二、三度瞬きする。
「・・・淋、いつきたんだ?」
「さっき」
「そっか。すまん、気づかなかった」
 淋は首をひねって、とりあえず鈴の隣に腰を下ろした。
「お姉ちゃんも変」
「・・・そうか? ・・・そうだな」
 さっきからずっと考え事だ。変といわれても仕方ない。
「なあ、淋」
「何?」
「ケンカしたこと、あるか?」
「ケンカ・・・。ううん、無い」
「そうか。実を言うと、あたしもそれらしいことをした覚えが無い」
 考えてみれば、世間一般でいうケンカという奴をしたことは、どれくらいあるだろう。
 自分が何か言っても恭介はのらりくらりとかわしながら、最後には恭介の言うとおりのことをしていた。
 謙吾や真人とは、ケンカになったら諦めたように引いてくれた。
 理樹に至っては、ケンカになりそうなら、理樹の方が意見を収めてくれていた。
「・・・困った」
「?」
 鈴は淋の顔を見て、うーみゅ、とうなり声を上げる。
「簡単に言うとな、理樹と恭介がケンカしたんだ」
「りきおにいちゃんと、きょーすけおにいちゃんが?」
「そうだ。それで、仲直りさせたい。間違ってるのは恭介の方なんだが、どうしたらいいのかわからん」
「お姉ちゃんも、わからないことあるんだ」
 淋の言葉に、鈴は見栄を張るわけでもなく、
「あるぞ。まだまだ一杯ある。困ったことにくちゃくちゃあるんだ」
「くちゃくちゃあるんだ」
「そうだ」
 あっさりと、その言葉を肯定した。
「でも、今がんばったらきっと判る」
「そしたら教えてくれる?」
「そうだな。教えられたらな」
 鈴は笑って、
「だから、ちょっと考え事ばっかりしてしまうかもしれん」
「うん。わかった」
 最近になってようやく気づいたことがある。
 淋という、自分が守りたいと思う存在ができたせいだろうか。
 自分は、本当に守られて生きてきたこと。
 ケンカに関したってそうだ。自分とぶつかりそうなら、周りが引いてくれていた。
 真人や謙吾にしても、あれだけ蹴っ飛ばしておいて、本気で怒ってきたことは一度だって無い。
 ふと、そういえば、と思う。
 自分にもケンカ相手が一人いた。
 あまり当てにしたくない相手ではあるが、ケンカばかりでも別に嫌いではない。
「・・・ふーみゅ」
「?」
 鈴に変わって猫達の相手をしていた淋が、姉貴分を見上げる。
「あたしはささこといつどうやって仲直りしてるんだ?」
「・・・どうやってだろう」
 参考にならなかった。
 頭が痛くなってきたが、考えるのを辞めるのはいけないことだ。
 鈴はそう断じて、改めて今回のことを考える。
 理樹がどうして怒ったのか。
 恭介がどうしておかしかったのか。
 小毬がどうして止めたのか。
 二人がどうしてケンカしたのか。
 そういえば、恭介はあの時変な笑い方をした気がする。
 理樹に殴られる、その直前に。
 なんだか、見たことが無い笑い方。
「うう」
「お姉ちゃん?」
「頭が痛くなってきた・・・」
 頭を抱えて突っ伏すと、淋ががんばれー、と小さな手で撫でてきた。
 それに励まされて、もう一度考える。
 恭介の笑い方の意味。それはちょっとわからない。ただ、嫌な感じがする。
 理樹はあの笑い方を向けられて、どんな気持ちだったのだろう。
 自分がそれを向けられたことを想像してみる。
「・・・っ」
 唐突に、何かが組み合わさった気がした。
 理樹が怒った理由。
 小毬が止めた理由。
 ケンカした理由。
 でも。
「う〜・・・。わからんことも増えた・・・」
「がんばれ、お姉ちゃん。ほら、レノンちゃんも応援」
「うにゃー」
 レノンの応援らしい鳴き声も受けて、鈴は頷く。
 あの笑い方を自分に向けられたと想像したら、すごく腹が立った。
 理樹も多分そうだったんだろう。
 小毬が止めたのも、そんな笑い方をした恭介が悪いことがわかってたからだ。
 あの時、なんとなくわかった気になっていたが、まだまだわかっていないことの方が多かった。
 まだまだ自分も馬鹿の馬鹿だ。
 そんなことを考え出して、頭を振る。追い出す。
 自分のことを考えるのは後にしなければいけない。
 今は、まだ考えることがたくさんある。
「棗さん?」
「あ、ささみおねえちゃん」
 佐々美の声に、鈴は顔を上げた。
「む、ささみか」
「あら、今日は間違えないのですわね」
「・・・あー」
 上の空で答えて、また思考に没頭する。
「淋ちゃん。どうしたんですの、この子は」
「仲直りのさせ方、考えてる」
「・・・なるほど」
 煙を吹きそうな勢いで考え込んでいる鈴を見て、佐々美は微笑ましそうに笑う。
 だが、佐々美としては、今回一番の鍵を握っているのは鈴だと思っている。
 微笑ましいといって、黙ってみているには少し時間が無い。
 だから、少しだけ助言した。
「棗さん?」
「何だ? あたしは今考え事で忙しい」
「知ってますわよ。だから、少し助言を差し上げようと思いまして」
「何だ?」
「・・・あなたは、直枝さんのことがお好きですか?」
「!?」
 驚いて、鈴は佐々美から距離をとる。
「な、何を言い出すんだお前は!? 恥ずかしい奴だな!」
「わたくしだって言いたくありませんわ。でも、必要だから聞いただけです」
 佐々美の言葉に、鈴は少し考え込んで、答える。
「居なきゃ困る・・・気がする」
 鈴の答えに、佐々美はため息をついた。
「では、あなたの想像力次第ですわね・・・。いいですか? 例えば、あなたが直枝さんに、こ、こ・・・こく、告白、なさったとしますわよ!?」
「何で変な声出してるんだ?」
「そこ気になさらないで下さらない!?」
 佐々美なりに必死らしいことを察して、鈴もとりあえず口を噤み、考え込む。
「・・・・・・っ」
 やがて、顔が赤くなった。
「は、恥ずかしいことを言うな!!」
「これが一番判りやすいと思ったからですわ!!」
 そんな応酬を交わして、佐々美は改めて、続きを口にする。
「もし、そのとき直枝さんが、・・・その」
「・・・いや、わかった。理樹が何で怒ったのか、すごく判った」
 さっきまで考え込んでいたせいだろうか。
 鈴の頭の中でシミュレートされた、自分の告白の情景は、あの恭介の笑い方に迎えられてしまった。
「何かすっごいむかついた。そうか、これは怒る。理樹が怒るのも無理は無い、これは怒る」
 どうやら本気で怒っているらしい。効果がありすぎたことに気づいて、佐々美は少しあわてるが。
「おねーちゃん?」
「・・・ん、すまん」
 淋の声で我に返って、落ち着いたようだ。
「・・・うん、えっと、そしたら、どうしたらあたしは怒らないで済むんだ?」
「そうですわね。何で怒ったのか判りませんけど・・・」
「あたしが告白した時にあの時の恭介の笑いが浮かんだ」
「・・・見事に言いたかった事を先回りされましたわね・・・」
「理樹が告白・・・違う、それはきしょい。何だ、何て言えばいいんだ?」
「直枝さんは真剣に棗先輩に向き合ったのに、棗先輩は、あの嫌な笑い方で答えたから、ですわね」
「それだ。・・・ささこに言われると悔しいな」
「ふふん」
 少しだけ負かした気分になって鼻歌を歌ってしまう佐々美である。
「そうか。恭介を立ち直らせるのは、あんな笑い方をさせないようにすることなのか」
 鈴の中で答えが出た。
 多少助言を受けたとはいえ、最も正解に近い答え。
「おねえちゃん、大丈夫?」
 淋は心配しているようだ。妹分に鈴は頷いて、
「あたしは、あたしのできることをする。決めたんだ」
「おねえちゃんのできること・・・」
「そうだ」
 鈴はもう一度頷いて、佐々美を見た。
「ささみ、こいつら頼んでいいか?」
「仕方ないですわね」
「ん、助かる。それじゃ行って来る!」
 鈴は走り出した。
「ささみおねえちゃんは、いいの?」
「そうですわね・・・。わたくしはまだ、あまり長い付き合いじゃありませんから」
 少しだけ寂しそうに、佐々美は言う。
「こういうとき、一番効くのは近しい人の言葉ですもの」
「そうなの?」
「ええ。それか、最も縁遠い人の言葉、ですわね」
「えんとおいひと?」
「他人・・・、そうですわね、淋ちゃんにとって、あそこの廊下を歩いている人、くらいでしょうか」
 佐々美自身も知らないくらい、名前の知らない男子生徒を指差して、言う。
「知らない人なのに?」
「そういうもの、ですわよ」
「うーん?」
 首を捻る淋を微笑ましく見つめて、佐々美は鈴が走っていった先を見る。
 自分ができる限界がこのくらいであることが、少し悔しかった。



 廊下を歩いている。こんな時でも腹は減るし、トイレにだって行きたくなる。
 馬鹿らしくなって、笑う。
「おい、恭介」
 唐突に、背後から声がかかった。
 真人の声。
「俺がいたことにすら気づかなかったかよ」
 全く気がつかなかった。
 おそらく、気がつかないまますれ違ったのだろう。
 恭介は笑う。
「・・・俺は、もうお前たちの仲間じゃない」
 自嘲の色を大きく含んだその言葉に、真人は舌打ちする。
 それから、続けた。
「なぁおい。お前、その程度の奴だったのか? 俺が負けたのは、こんな奴だったのか?」
「・・・・・・何が言いたい?」
「知らねぇよ。そういうのは自分で考えな。俺だってわかることだぜ」
 真人の歩き去っていく足音が背後から聞こえる。
 恭介もまた、俯いたまま歩いていく。
 顔は、上げなかった。
 だから、気づかない。
 その場にいたのは、真人だけではなかったのに。



「・・・酷い面だったな」
「ああ」
 唯湖の言葉に、真人は苦々しげに言う。
「堪えているのは、やはりリトルバスターズを抜けさせられたことだと思うか?」
「そこはわかんねぇな。俺は恭介じゃねぇし」
 真人はあっさりと言い切る。
「来ヶ谷はどう思ってるんだよ」
「うむ。あれはいろいろあるな」
「いろいろ、かよ・・・。訳わかんねぇ」
「君はそれが持ち味だろう。訳がわからんなら訳がわからんなりに、思うようにすればいい。先ほどのようにな」
「ちっ。そのつもりだよ」
 言って、真人は唯湖を改めて見る。
「そういう来ヶ谷は何かやったのか?」
 唯湖は肩をすくめると、
「私は君たちほど語るべき言葉を多くは持たん。だから、僅かな示唆を与えただけだよ」



 教室に戻った恭介は、自分の机の上に封書が載っているのに気づいた。
 差出人の名前はない。
 とりあえず、開けてみる。
 一枚の紙に、短い文が記されていた。
「鏡を見ること・・・?」
 鏡ならさっきトイレで見た。そう考えて、ふと気づく。
 本当に、見たのか。一瞬感じた疑念。
 恭介は改めて、トイレの鏡の前に向かう。
 今度は、知った顔は誰もいなかった。廊下を重い足取りで歩いて。
 そうして、その前に立つ。
 鏡。
 自分の顔が映る鏡。
「・・・・・・うわ、ひでぇ顔」
 さすがにそう評するしかできない顔が映っている。
 封書の主が示したかったのはこれか。
 だとしたら、随分と皮肉気なことだ。
 思って、笑う。
 笑った顔を鏡で見て、その笑いが凍りついた。
「・・・」
 笑いじゃない。哂い。
 自分が浮かべていた、哂い顔。
 いつものように笑っていたと思っていた。今の、今まで。
 いつからこんな顔になっていたのだろうか。
「・・・俺は、こんな顔を、理樹にも向けたのか?」
 呆然と、鏡の自分を見つめる。

――今の、今の球が、恭介の・・・本気なの?
――お前、その程度の奴だったのか?

 向けられた二つの言葉。
 暗い哂い。
 取り繕うことすらできなくなっていたことに、ようやく気づいて。
 だが。
 だが、気づいたからといって、何ができる。
 今更。
 もう、今更なのだから。
「・・・いいじゃないか、もう。俺には、似合いの哂い方だ」
 ただ、それでも心に決める。
 もう、笑うまい。そんな、悲しい決意。










 残滓の世界。
 また、夢を経て恭介はその世界に迷い込んでいた。
 もう何度目だろう。
 いつから、この世界を垣間見るようになったのだろう。
 そんな取り止めのない疑問が浮かぶ。
 その疑問に答える前に、失うことへの無念の思いが、恭介の心を抉っていく。
「もう、止めてくれ・・・」
 堪らず、膝を付く。
「俺は、もうお前らの仲間ですら無いんだ・・・。だから、もう、もう止めてくれ・・・」
 残滓の世界はその声を聞き届けず、恭介に向けて無数の手を伸ばそうとする。

 オマエガ、ニクイ・・・!

 憎悪に満ちた声が恭介の脳裏に響き渡り。
 伸びてきた手が、恭介の首へ・・・。








「・・・〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?」
 悲鳴にもならない声で、恭介は飛び起きた。
 前はあの憎悪の声が聞こえたところで目が覚めた。
 今度は、首を絞められかけるところで、目が覚めた。
「・・・次は、殺されるかもな・・・」
 ルームメイトはまだ眠っているようだ。
 起こさないように気をつけて、ベッドを降りる。
 夜はまだ明けていない。
 だが、もう眠れそうにない。
 恭介は手早く着替えてジャケットを羽織ると、部屋を出た。
 寮の薄暗い廊下を歩いて、外に出る。
「・・・さみぃな」
 呟いて、歩く。
 思い出すのは夢のこと。自分の哂いのこと。形を成さない気持ちのこと。
 でも、考えられない。考えたくない。
 リトルバスターズからは去るように言われ、夢は悪夢に苛まれ、一人でいれば現実に押し潰されそうになる。
 追い詰められてるな、と、思う。
 鈴を壊した瞬間の理樹と鈴も、こんな感じだったのだろうか。
 だとすれば、当然の報いか。そう、思った。
「恭介さん?」
 小さな声が聞こえた。
 驚いて、振り向く。
「・・・・・・西園」
「驚きました。このような時間に会うなんて」
「・・・・・・」
 恭介は彼女の顔から目を逸らして、背を向ける。
「眠れないのですか?」
「・・・そんな感じだ」
 足音が近づいてくる。やがて、恭介の前に、水筒のカップが差し出された。
「・・・?」
「紅茶です。少しは気が休まると思います」
 恭介はそれを黙って受け取って、一口。
「・・・旨い、な」
「お粗末さまです」
 美魚はそう言って、白み始めた空を見上げる。
「この時間の空気は、結構好きです」
 聞いてもいないのに、美魚は言う。
「夜が明けていく光景も、結構好きです」
 恭介も空を見上げた。
 闇が光に駆逐されていく様。
「・・・いえ、最近、好きになれたのだと思います」
「・・・最近?」
「ええ。最近です」
 だんだんと、夜が明けていく。
 それを見て、恭介は改めて、受け取った紅茶を飲む。
 すべて飲み干して、カップを美魚に返した。
「・・・旨かった」
「どうも」
 短い会話を交わして、美魚は一礼し、歩いていく。
 寮に戻るのだろう。
 その背中をなんとなく見送っていると。
 唐突に、美魚はこちらを振り返った。
「何のために、一人であろうとするのですか?」
「・・・何?」
 美魚は、歌うように続ける。
「私も孤独を望みました。でも、望むまでも無く、孤独はここにあった」
 恭介は、黙ってそれを聞く。
「恭介さん、あなたは、どうなんですか? あなたの求める孤独は、どんな形をしていますか?」
 そうして、美魚はまた背を向ける。
「そういえば、ふと、思い出したのですが」
 歩きかけて、美魚はその足を止めた。振り返らないまま、続ける。
「いつまでも、きっと忘れられない、大切な宝物」
 恭介は、その言葉に眉をひそめる。
「『向こう側』で、直枝さんは恭介さん達との思い出をそう語ってくれました。私も、皆さんとの思い出、そう思います」
 懐かしそうに、寂しそうに、美魚は言う。
「・・・そういえば、秘密にしてくれと頼まれていました。約束、破ってしまいましたね」
 そうして、美魚は肩越しに困ったような笑みを向ける。
「では、失礼します」
 去っていく美魚の姿を見送り、恭介はまた明けていく空を見上げる。
「・・・俺の望む、孤独の形・・・?」
 美魚が残していった問いかけ。
 それを、静かに繰り返す。
 望むまでも無く、そこにあったという孤独。
 答えなど、出なかった。



 答えを突きつけたところで、それは意味が無いのだと。
 理樹が答えを突きつけなかった理由。
 中庭に座り込んで、クドは二匹の犬を撫でている。
 その理由を考えながら。
 クドも理樹が怒った理由は判ってはいる。だが、理樹はその理由を口にしなかった。
 争いごとを理樹は嫌う。その前に、話し合おうとする。
 そして、理樹は恭介の非をちゃんと認識していたはずなのに。
 なのに、言わなかった。言わないまま、ただ、殴りつけた。
 その結果何が起こるかわからない訳じゃないだろうに。
「・・・私は、どうすればいいのでしょうか?」
 ストレルカが頭を上げて、クドを見る。
「そもそも、リキも最近すぐ居なくなるのです。恭介さんを元気付けたくても・・・」
 理樹が言わなかったことを、自分が言っていいのか、戸惑っている。
「くーちゃん」
 そうやって考え込んでいるクドに、かけられた声。
 クドは驚いて顔を上げて、その声の主を見上げる。
「小毬さん」
「くーちゃんも、難しい顔してるねぇ」
「わふ・・・」
 小毬はそう言って、クドの隣に腰を下ろす。
「何か、悩み事?」
「はい・・・。リキは自分から誰かを傷つけたりするような人じゃありません。なのに、どーしてあんなことをしたのか、私には判らないのです」
 クドは膝を抱え込んで、その膝に顎を乗せて、
「リキが怒った理由は判ります。でも、リキが手を上げた理由が、判りません」
 それは、少し辛いことだった。
 クドは理樹が好きだから。好きな人を理解できないのは、辛いことだから。
 だから、クドはその言葉を口にするとき、僅かに涙を堪えなければならなかった。
 その頭を小毬は優しく撫でる。
「小毬さんは、判るのですか?」
 クドの問いかけに、小毬は首を横に振る。
「ううん、判んないよ。判んないけど・・・、判んないなりに、できることがあるから」
 そう言って、小毬は微笑む。 
「部室廉の裏に、行ってみて」
「・・・部室廉の裏、ですか?」
「・・・理樹君、多分そこにいるから」
「え」
 クドは驚いて、小毬の顔を見上げる。小毬はその視線に気づいて、微笑を浮かべると、
「私、難しいことは苦手だから。いっぱい考えて決めるより、とりあえずやってみるんだよ」
「・・・小毬さん?」
「でも、くーちゃんは、そうじゃないよね。いっぱいいっぱい考えて、そうやって決めるんだよね」
 小毬は微笑んで、続ける。
「だから、くーちゃんは理樹君とお話してみないといけないと思うの。理樹君の気持ちを知ってから、もう一回考えてみよう」
「あ・・・、はいです!」
 それは、問題を先送りにすることなのかもしれないけど。
「それじゃ、私行くね」
「小毬さんは、行かないのですか?」
 小毬はクドの問いかけに、微笑んで頷く。
「私は、約束があるから」
「約束、ですか?」
「うん」
 頷いて、小毬はそこを走り去る。
 小毬を呼び止めようとして、クドは何故かその言葉を口にできなかった。
 傍でクドを見上げているヴェルカとストレルカに力なく微笑む。
「・・・ストレルカ、ヴェルカ。私、また選べない子になってます・・・。何だか、情けないですね」
 でも、自分は考えないと進めないから。
「それじゃ、二人とも。わたし、行ってくるのです」
 二匹の吠え声に見送られ、クドは駆け足で理樹がいるという部室廉の裏に向かう。
 だが、近づくにつれて、その足は少しずつ重くなって。
 自分の力で選べない自分が、まだここにいることに。
 その暗闇に沈みそうになる思考を、風切り音が引き裂いた。
 驚いて、足を止める。耳を澄ます。
 また、風切り音。部室廉の裏からだ。
 小毬の話では、あそこには理樹がいるはずだった。
 だが、そういえば理樹はそんなところで一体何をしているのだろうか。
「・・・り、理樹・・・?」
 恐る恐る、その裏を覗き込む。
 また、風切り音。
 バットを振り切った姿の理樹がそこに立っていた。
 ずっと繰り返していたのだろうか。
「・・・リキ?」
「・・・ん? クド」
 理樹はクドに気づいて、バットを下ろす。
「どうしたの? こんなところに来て」
「あ、小毬さんに、リキがここにいると聞いたので」
 そこで、一度言葉を切って、クドは理樹に歩み寄った。
「聞きたいことが、あるんです」
 そして、そう続ける。
 理樹は僅かに微笑んで、近くにある座れそうな場所を示した。
 二人で並んで、それに腰掛ける。
「聞きたいこと、って?」
 理樹に問い返されて、クドは少し言いよどんだ。
「・・・はい。あの」
 理樹を少し見上げて、意を決して、続ける。
「恭介さんを、どうして、殴ってしまったりしたんですか?」
 半ば予想していたのだろう。理樹は少しだけ辛そうに笑った。
 だが、はっきりと答える。
「恭介は僕に、一人じゃないことを教えてくれた人だ。その人が、自分から一人になりに行ってる」
 暗闇に差し伸べられた手が、どれだけ救いだったのか。
 恭介は、鈴を、真人を、謙吾を、そして理樹を暗闇から救い出したのに。
 今、暗闇に捕われている恭介は、誰にも救いを求めない。
「それが、許せなかったんだ」
 理樹は、建前を口にしない。恭介のために、殴ったと、そう言うことはいくらでもできたのに。
 あくまでも、自分が許せなかったから殴ったのだと言う。
「・・・リキ」
「何?」
「本当に、そうなのですか?」
 理樹は苦笑する。
「一番の根っこだよ、それが。いろいろ思うことはあっても、ね」
 理樹はそう言って、立ち上がる。
「ミッション、やってるんだよね?」
「あ、はいです」
 誰かから聞いたのだろうか。
 理樹は肩越しに振り向く。
「恭介のこと、よろしく」
 そうして、またバットを構える。
 理樹は待っている。立ち直った恭介がここに来るのを。
 クドは知らないが、それはまるで、「向こう側」が終わる直前の、理樹と恭介の裏返しだった。
 信じている。リトルバスターズという絆を。だから、理樹は自ら悪役になる。
 その背中を見て、クドも立ち上がった。
「リキ、私、戻ります」
「うん」
「あの、無理しないでください、リキ」
 そういい残して、クドはその場を離れる。
 誰かと重なって、でもその誰かとは決定的に違う心の有り方に、苦しくなった。
 自分を生贄にすることで、許しを請おうとした誰か。
 その誰かに向けて、それは間違っていると、差し伸べられた手。
 理樹も今また、その誰かと同じく自分を生贄にしているのに。
 なのに、間違っていると、言えない。
 未来を放棄していないから。その先に、何かがあると信じているから。
 その背中が、凄く大きく見えた。



 グラウンドの見える道。恭介はそこに立っていた。
 今は、どこも活動していないらしい。
 だだっ広いだけの広場を見下ろして、恭介はただ立ち尽くす。
 その隣に、一人、立った。
 謙吾だ。
 恭介はそれを振り返らないまま、変わらずに立つ。
 謙吾も同じく。互いに、何も語らない。
 やがて、恭介が口を開いた。
「・・・コールドゲームの続きだ、だとさ」
「・・・俺は、あのことに関して理樹に何も言っていない」
「・・・そうか」
 それだけの、会話。
 また、沈黙。
 このグラウンドでどれだけの思いが交わされてきたのだろう。
 なんとなく、そう思った。
 今度は、謙吾が口火を切る。
「理樹は、あのことを覚えていたのだな」
 雨で潰えた勝負。
「いや、当然か。おそらく、初めて本気のお前と勝負した時だろうからな」
「・・・形振り構っていられなかっただけだ」
「そうだろうな」
 淡々と、会話を交わす。
「恭介」
「・・・?」
「心に嘘をつき続けるのは、辛いぞ」
 謙吾はかみ締めるように言う。
 恭介は答えない。
 謙吾もまた、無言で立つ。
 やがて、来たときと同じように、謙吾は無言のまま、踵を返した。
 互いに、見送る言葉も、去る言葉も無いままに。
「私、恭介さんがどうして苦しんでいるのか、わかりません」
 唐突に、背後から、声。
 やはり振り返らないままの恭介に、その声は続ける。
「でも、理樹君は、恭介さんのこと、見捨ててません」
「・・・・・・なに?」
 振り返る。いつからいたのだろう。小毬がそこにいた。
「理樹君は待っています。恭介さんが立ち直ってくれるって」
「・・・あいつは、俺を」
「恭介さん」
 小毬は笑う。
「目を開いてください。見えなくなっちゃったものを、もう一度見てください」
 そうして、小毬は頭を下げて、立ち去ろうとする。
 その背中に、恭介は声をかけた。
「小毬!」
 小毬は振り向く。
 恭介は、その言葉を一瞬言いよどんで。
 そして、口にした。
「お前は、俺が憎くないのか? お前には、お前が一番、俺を恨む理由があるだろ!?」
 小毬はその言葉に驚いた顔をして、それから寂しそうに笑った。
「恭介さんの目が、また、もう一度、見えるようになりますように」
 答えではない、答え。
 それを残して、小毬は立ち去る。
 その背中を、恭介はただ、見送る。



 日が落ちた。
 寮に戻る気がせず、恭介は校門の方へと歩いていく。
 その前に、二人の女生徒が立ちふさがる。
「もう門限を過ぎています。外出禁止の時間ですが?」
 片割れが、そう咎めるように言う。
 佳奈多と、葉留佳。
「恭介君、ご飯食べてないんじゃない? はい、これ」
 葉留佳から、無理やり押し付けられるように渡された紙袋。
「いやー、なかなか大変でしたよー。でもその甲斐あって今回は自信作!」
 葉留佳はあくまでも明るく振舞う。それが葉留佳の有り方だから。
「やっぱお腹減ってるとネガティブになっちゃうからねー。これは経験談だったりするのですヨ。何もかもが自分を責めてるように思えるんだよねー」
 あっけらかんと言うその言葉の裏に、どれだけの痛みがあったのか、恭介だって知っている。
 あの世界でそれを暴いたのは彼自身なのだ。
 それでも、葉留佳は過ぎたことだと笑い飛ばす。
「そういうわけです。食堂で食べろとまでは言いません。でも、ちゃんと食事をして、眠ってください」
 佳奈多もまた、何かを恭介に手渡す。
「・・・あまり使うのは進めませんが、西園さんからあまり眠っていないと聞いたので。睡眠薬です」
「・・・あ」
 薬を手のひらに載せて、恭介は小さく声を上げる。
「悪い夢なんて気の持ちようですけどね」
「ほんとにねー」
 姉妹そろってため息をついてみせる。
 それから恭介の後ろを見て、
「おお、来た来た」
「そうみたいね」
 そんな声を上げた。
 不審に思って、恭介もまた後ろを振り向く。
「・・・・・・鈴」
 鈴がいた。手に二つのグローブを持っている。
 恭介をただ見つめている。
「鈴ちゃん、がんばってね」
 葉留佳の声援に、鈴は頷いて、
「はるかもかなたも、助かった、ありがとう」
「いえいえー」
 照れたように笑う葉留佳。小さく微笑する佳奈多。二人は兄妹を残してその場から離れていく。
「・・・きょーすけ」
「・・・・・・なんだ?」
「とりあえず、その荷物置け」
「・・・?」
 足元に、葉留佳から貰った袋を置き、佳奈多から貰った薬はポケットに突っ込んだ。
 両手が空いたのを確認すると、鈴は持ってきていたグローブを恭介に投げ渡す。
「・・・・・・キャッチボールしよう、兄貴」
「・・・は?」
「何だ、嫌なのか?」
「・・・・・・いや、別に」
 グローブをはめて、構える。
 鈴もまたグローブを左手に嵌めて、恭介を見据えた。
「ふっ」
 短い呼気の音。
 乾いた音を立てて、ボールが恭介の構えたグローブに納まった。
 恭介はそれを取り、そして鈴へ投げ返す。
 再び、鈴から恭介へ。恭介から、鈴へ。
 会話も無く、ただボールのやり取りが続く。
 ふと、恭介は気づく。
 キャッチボールの最中。嫌でもその目は鈴に向けられて。
 鈴の顔を、見て。
 いつから、自分は鈴の顔を見ていなかったのか、と。
 ボールがまた自分のグローブに帰ってくる。
 一球一球がだんだん力が篭って来ている。
「・・・鈴」
「何だ?」
「キャッチボール、誰かから言われたのか?」
 鈴はきょとんとした顔で恭介を見て、首を横に振った。
「ささみやこまりちゃんと相談はした。でも考えたのはあたしだ」
「・・・そうか。すげぇな、お前」
「何がだ?」
 多分、自分が楽しいことを恭介にさせたかっただけだろう。
 向こう側の終わりがけ、心を閉ざしかけていた自分が、理樹とのキャッチボールをきっかけにしたように。
 だが多分、鈴はそこまでしかわかっていない。
 それが昔、恭介自身が鈴にしたことだということ。
 それが、今こうやって恭介に帰ってきているということ。
 何だかやっと、認められそうな気がした。
「・・・俺は、お前に、嫉妬していたんだな」
 渦巻いていた黒いものがひとつ、解けて行く。
 全てが消えたわけじゃない。
 名前をつけることを恐れていた思いは、「嫉妬」と言う名前を与えられて、ひとつの形になって落ち着いた。
 認めることで、やっと向き合えるのだと、気づいた。
 止まっていた手を動かし、鈴に投げ返す。
 前よりも、強く。
「・・・!?」
 鈴が驚いた顔になる。
 それから、鈴からも強い球が帰ってくる。
 ひとつ認めたら、そこから解けて行く様に、自分の気持ちが見えてくる。




――お前、その程度の奴だったのか?

 真人の問いかけ。

――鏡を見ること。

 今ならわかる、唯湖の残していったメッセージ。

――あなたの求める孤独は、どんな形をしていますか?

 美魚から与えられた命題。

――心に嘘をつき続けるのは、辛いぞ

 謙吾からの言葉。

――恭介さんの目が、また、もう一度、見えるようになりますように

 小毬が寂しげな笑顔と共に残した願い。

――何もかもが自分を責めてるように思えるんだよね。

 傷を越えて笑う、葉留佳の言葉。

――悪い夢なんて気の持ちようですけどね

 後悔に苛まれていたはずの、佳奈多の微笑。



「鈴」
「・・・?」
 ボールを投げ返して、恭介はしっかりとグローブを構える。
「思いっきり来い」
 その目は、鈴をしっかりと見据えている。
 鈴はそれを見て、頷く。
 構え、そして力を溜めるように、動きが止まる。
 それから、
「っ!!」
 鋭い呼気の音と共に、鈴の最高の速球が、恭介のグローブに叩き付けられる。
「つっ」
 その衝撃に、恭介は小さく呻いた。
「・・・はは。すげえな、お前こんな球投げられるようになってたんだな」
「今更何言ってるんだ?」
「ああ、ほんとに今更だ」
 恭介は笑った。少しだけ自嘲気味に。それでも、以前の笑顔で。
「サンキューな、鈴。あとは、俺の問題だ」
 足元の袋を拾い上げ、鈴に歩み寄る。
「・・・大丈夫なのか?」
「ああ」
 そう言って、鈴にグローブとボールを渡す。空いた手で、鈴の頭を撫でようとして。
 その手は、苦笑と共に下ろされた。
「鈴」
「何だ?」
「理樹がどこにいるか、知ってるか?」
「あたしは知らない。小毬ちゃんが知ってるはずだ」
「そうか。じゃあ、答えが出たら小毬に聞けば良いな」
 恭介は鈴の傍らを抜けて、寮へと歩いていく。
「きょーすけ」
「何だ?」
 その背中にかけられた妹の呼びかけに、恭介は振り返る。
「・・・負けるな」
「・・・・・・ああ」
 不器用な声援に、恭介は笑って、また歩いていく。
 認めたくなくても、それを認めなければ向き合えないと判ったから。



 葉留佳の作ったというマフィンを腹におさめる。
 佳奈多から貰った薬は飲まなかった。
 悪夢に対して、答えを出さないといけない。
 だから、恭介は諦めじゃなく、覚悟を持って夢の世界へと降りていく。



 その世界は、いつも廊下に立ち尽くすところから始まった。
 聞こえてくる、失いたくないという声。
 恭介は気づく。
 いつも、ただ廊下を歩いているだけだった。
 今度は違う。
 声がどこから聞こえてくるのか、それを確かめるために耳を澄ます。
 向き合おう。
 その思いを紡ぐものと。
 声に導かれて、恭介は歩く。
 ニクイという声は聞こえない。
 首を絞めようとする手も現れない。
 そして、辿り着いた教室。理樹達の教室だった。
 そのドアを開こうとする。

 ヤット、キタネ

 唐突にそんな声が聞こえて、そこで恭介の意識は夢から弾かれた。



 鳥の鳴く声が聞こえる。
 朝だ。
 久しぶりに、朝まで眠っていたらしい。
「お、棗、今日はよく眠ってたみたいだな」
 ルームメイトのその言葉に、恭介は苦笑する。
「・・・いろいろあってな」



 そうして、その日は始まった。
 恭介は顔を上げる。
 答えが出るかどうかはわからない。
 それでも、向き合わなければいけない。
 今度こそ、本当の覚悟を持って。









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