鏡を見る。
 前よりはマシだ。マシになれた。
 そのことに、少し安堵する。
 まだ、考えなければいけないことは沢山あった。
 鈴に対して。理樹に対して。そして小毬に対して。
 今いる全ての仲間たちに対して。
 犠牲にしてきたもの、生贄にした思い達に対して。
 ネガティブになりそうな自分を必死で奮い立たせる。
 まずは、一つ目。
 受験直前の消化授業の真っ只中も、恭介はそのことを考える。

―――あたし、淋みたいな子の友達になりたい。それで、一緒に友達を作る手伝いがしたい。

 思い返すたびに胸がざわめいたその言葉。
 ざわめいたのは、嫉妬したから。
 では、何に。鈴の何に、自分は嫉妬したのだろう。
 鈴と淋の間の出来事を思い出す。
 先生になりたい、と、鈴は言った。
 未来を見て。
 自分は、どう思ったのか。
 恭介は外を眺める。視線だけは、外に。
 だが、その意識はずっとずっと、自分の心の奥底を探り出す。
 そもそも、自分は一度として未来を見ただろうか。
 ふと、そんなことを疑問に思った。
 同時にそれが答えだということに気づく。
 気づいてしまえば笑い話だ。
 鈴は、恭介が持っていない、未来へ託す『夢』を手に入れて。
 なんとなく就職しようとしていた自分は、その『夢』の眩しさに嫉妬したのだ。
 持っていないことを認められなかった。
「・・・俺は」
 自嘲気味に、呟く。
「本当に、今だけを願っていたんだな」
 ずっと続く、現在を。
 理樹が「向こう側」に置いていった、ずっと皆でいられる時間を。
 まさか自分が願っていたなんて、思ってもいなかった。
 だから。
 連鎖的に答えが出ていく。
 いつからか、理樹に向き合えなくなったのは、その差。
 その願いを、覚悟の上で置いていった者と、未だにしがみ付こうとしていた者の、差。
「ふーん」
 唐突に、声が割り込んだ。
「・・・あやか」
「やほ」
 いつの間に休み時間になっていたのだろう。
 目の前に、あやが立っている。
「ずいぶんマシな顔になってるじゃない」
「・・・そうか?」
「やっぱ、兄妹の絆は強いわね」
「・・・かもな」
 その鈴に嫉妬していた、なんて恥ずかしくて口にできない。
「じゃ、私から言えるのはこれだけね」
「何だ?」
「本調子じゃないあんたに勝ったって仕方ない。さっさと元の恭介に戻りなさい」
「・・・あ」
 それが、唐突にピースとしてどこかに嵌った気がした。
 そして、笑う。鈴とのキャッチボール以来、自分の馬鹿馬鹿しさに笑ってばかりだ。
「そうだな。努力する」
「ん」
 あやは頷いて、恭介の前から去っていく。
 あやのくれたパズルのピースは、ある意味、真人の問いへの答えだ。
 
――お前、その程度の奴だったのか?

 んなわけ、ねーだろ。
 内心で、そう答える。
 ちょっと悩みすぎておかしくなってただけだ、と。
 それに答えを返すと、またそれぞれが残していった言葉が、恭介に答えを求めてくる。

――鏡を見ること

 唯湖のこの忠告は、どれだけの暗示を含めていたのだろうか。
 鏡。人は、人を映す鏡だと言う。
 恭介が今までしてきたことは、皆の言葉で帰ってきていた。
 それを見ないようにしていたのは、自分自身だった。

――あなたの求める孤独は、どんな形をしていますか?

 美魚らしい問いかけだと、思った。
 どこか詩的な言葉。でも、美魚の言う孤独は言い換えることができる。
 彼女の「孤独」は、世界と同義語だ。
 判ってしまえば、その形は簡単だった。
 ずっと、そこにいたのだから。

――心に嘘をつき続けるのは、辛いぞ

 謙吾も一時期、そうやって生きていた。
 美魚の問いに対する答え。
 それが判ったときに、謙吾の言葉の意味も理解する。
 抱いていた負い目に苛まれて、離れていっていた自分に。

――何もかもが自分を責めてるように思えるんだよね。

 その通りだった。
 そんなこと、全く無かったのに。
 責めていたのは、自分を追い詰めていたのは、他でもない自分だった。

――悪い夢なんて気の持ちようですけどね

 笑ってしまう。
 夢に向き合おうと思った時、恭介を追い詰めようとした手も、声も現れなかった。
 なんて、単純な答えだったのだろう。



 そう、逃げていたんだ。



 理樹に、あれだけ「向こう側」で逃げるなといい続けた自分が。
 今、皆から逃げ出そうとしていたのだ。
 いろんなことへの答えが、この言葉で全て解けた気がする。
 恭介は立ち上がった。
 教室の出口に向かおうとして、そこに立つ小柄な人影を見つける。
「クド」
「恭介さん」
 彼女は少しだけ困った顔で、恭介を見上げた。
 その彼女の後ろに、もう一人。
「古式も、いたのか」
「答えは、出たみたいですね」
「・・・ああ」
「やはり、棗先輩は強いですね。私では辿り着けなかった答えに、あっさりと着いてしまうのですから」
「そうでも、無いさ」
 自嘲気味に笑う。
「逃げていたと気づいても、どうすりゃいいか、まだ判ってない」
 その言葉に、クドが口を開いた。
「リキは、今もずっと素振りしているのです」
「・・・理樹が?」
「はい・・・」
 そうして、クドは続ける。
「・・・私は、自分の言葉を持ってません。だから、伝えることしかできないです」
 その彼女の背中を、みゆきがなだめる様に撫でている。
「でも、私はそうすることが大切だと思ったから、恭介さんに伝えます」
「・・・ああ」
 クドは恭介を見上げて、はっきりと言う。
「リキは、自分を犠牲にしてます。そして皆を、恭介さんを信じてます。リキに、答えてあげてください」
 それが今、恭介がどうしなければいけないか、その答えだった。
 理樹はあの時言ったはずだ。
 一度だけ、再戦を受ける、と。
「棗先輩、あなたは、どうしたいのですか?」
 みゆきの問いかけに、恭介は二人の少女の傍らを抜けていく。
 そして、答えた。
「・・・それは、理樹に勝って言うさ」
 今度は、ちゃんと笑えた。



 理樹達の教室。
 そういえば、夢の中でもこの教室のドアに手をかけた。
 そのことを思い出して、恭介はその因果に苦笑する。
 ヤット、キタネ。その言葉で恭介は迎えられ、そして追い出されたのだ。
 現実では、どうなるだろうか。一瞬だけ躊躇し、そして、逃げるなと自分に言い聞かせて、ドアを開く。
 教室内で雑談をしていたクラスの生徒達が、驚いて恭介を見た。
 恭介は真っ直ぐに、小毬の前に立つ。
「・・・小毬」
 彼女は問いかけるように、恭介を見上げた。
「理樹に、会わせてくれ」



 あの日。恭介が理樹に敗れた日。
 理樹はその日の放課後から、ずっと部室廉の裏でバットを振っていた。
「理樹君・・・」
 唐突にその一人だけの世界に入り込んだ、優しい声。
「・・・小毬さん」
 理樹は小毬を認め、素振りの手を止める。
「・・・見つかるものだね」
「ずっと探してたから」
 小毬は苦笑いする。
 そして、互いに言葉を無くす。
 小毬はただ理樹を見つめ、理樹もまた、小毬を見つめ返す。
 根負けしたのは、理樹の方だった。
「・・・責めないの?」
「うん」
「・・・・・・どうして?」
 理樹は、目を逸らしながら、問いかける。
 小毬は少しだけ困った顔になって、答えた。
「・・・どうして、かなぁ」
 苦笑いして、小毬は続ける。
「いろいろね、理樹君に聞きたいこと、あったんだよ。でも、今の理樹君見たら、なんとなくわかったから」
「・・・今の僕?」
「うん。だから、私、今は何も言いません。その代わり、約束するよ」
 理樹はまた、小毬を見る。
 小毬は微笑んで、続けた。
「今ね、皆でミッション始めたの。恭介さんを立ち直らせよう、って」
「・・・そう、なんだ」
 その言葉で、理樹は少し気が楽になったように微笑んで。
「約束。私、今度ここに来る時は、立ち直った恭介さんを連れてくる。絶対に約束」
 小毬の口にした約束に、理樹は目を丸くして。
「・・・うん、ありがとう、小毬さん」
「まだありがとうは早いよ、理樹君」
 もし、上手くいかなければ。そんなことを、たぶん互いに一瞬考えた。
 でも、きっと上手くいくと思った。
 だって、仲間たちが皆いるのだから。
「・・・お願いするね」
「うん。待ってて」
 それが、小毬が理樹と交わした約束だった。



 わずかな間の回想。
 理樹との約束を思い返し、小毬は目の前に立つ恭介を見上げ。
 そして、ゆっくりと、頷いた。



 コールドゲームの、続き。
 理樹にとって、使わずに済むならばそれが一番いい言葉だった。
 コールドゲーム。
 恭介の様子がおかしいことに気づいたとき、「向こう側」が絡むことならば、と必死で記憶を探り続けた結果の言葉。
 この言葉で、理樹は一度、リトルバスターズを失った。
 恭介によって、奪われたのだということ。そして、それを恭介が負い目に思っているだろうこと。
 無理やりでも引きずり出すことができる、切り札。
 そして、同時に。
 その言葉を使うことは、理樹にすらもう一度、リトルバスターズを失う覚悟を強要する。
 理樹にとって、それだけの意味がある言葉だった。
 本当は、手を引きたかったのだ。悩んでいる恭介を、暗闇に閉じこもろうとする恭介を連れ出してあげたかった。
 だが、理樹にそれはできない。いや、理樹だけじゃなく、他の仲間たちの誰にも、恭介の手を引いて歩くことはできない。
 恭介と、彼以外の仲間たちの間に横たわる、一年という絶対的な時間が、それを許さない。
 半年もしないうちに、恭介は嫌でもこの場から飛び立たなければいけない。
 そして、自分たちはまだ一年以上、この場に留まらなければいけない。
 恭介の先に立って、道を作ってあげることは、彼らの誰にもできない、許されないことだった。
 そこまで思い返して、足音に気づく。理樹は休めていた体を起こした。立ち上がる。
 小毬に連れられて、部室廉の裏へと恭介が姿を見せた。
「・・・理樹」
 今度は、違う。
 恭介は目を逸らさない。ただ、真正面から、今ここにいる自分を見据える。
「再戦を申し込む。日時は今日の放課後」
 小毬より数歩前に出て、恭介は理樹に宣言する。
「わかった。覚悟はいいんだね?」
 理樹もまた、真正面から恭介に相対する。
「負ける覚悟か? そんなものはしてないさ。俺が勝つからな」
「さぁ、どうだろうね。勝つのは、僕だ」
 互いに譲らない。絶対に勝つ。その宣言を交わして。
「じゃあな、小毬。案内、ありがとよ」
 恭介は踵を返し、小毬の傍を抜けていく。
 その背中を見送って、小毬はそっと、理樹に歩み寄った。
「・・・・・・理樹君」
「ありがとう、小毬さん。約束、守ってくれて」
「ううん」
 理樹はさっきまでの真剣な表情が嘘のように、嬉しそうに笑っていた。
 だから、小毬も微笑む。
「・・・理樹君」
「何?」
「頑張ってね。私、きっと理樹君も恭介さんも応援しちゃうと思うけど」
 負けないでね、とも、勝ってね、とも言えない勝負。
 いや、勝たなければいけないのは、恭介なのだ。
 理樹には声援は送れない。
 そういう位置に、理樹は自分から立ったのだから。
 でも、小毬は送る。理樹に、頑張って、と。
「うん」
 だから、理樹は微笑む。
 それが小毬なんだと知っているから。
「もう、戻ったほうが良いよ」
「うん、そうだね」
 理樹の言葉に、小毬はちょっとだけ残念そうに笑って、二、三歩後ろ向きに歩いて。
「理樹君」
「何?」
「・・・・・・全部終わったら、お説教するからね?」
 その言葉に、理樹は思わず噴出した。
「わかった、甘んじて受けます」
「うん」
 小毬は笑って、それからその場を辞した。
 残された理樹は、手にしたバットを構えず、壁に身を預けて座り込む。
「後は、僕の仕事だね」
 対決のときまで、理樹は再び体を休め、目を閉じた。



「本当は、な」
 謙吾は、小毬から再戦の日時を聞いたときに、こんなことを語った。
「遅かれ早かれ、恭介が何らかの形で、潰れかけることはわかっていた」
「・・・そうなのですか?」
 同席していたみゆきが、驚いた顔をする。
「理樹と鈴は、今まで恭介に手を引かれていたようなものだ。だが、裏を返せば、それは恭介もまた、手を引いて歩くことしかしていないということだ」
「・・・あ」
 それは、ひとつの強さなのだろうけれども。
「俺も真人も、強くなるのは仲間を守る力を得るためであると同時に、自分自身を高める為だ。だが、恭介は違う。あいつは、正真正銘、理樹と鈴の為だけに強くなった」
「だが、その理樹君と鈴君が強くなり、恭介氏の手を放して自ら歩き始めた今となれば、その手はどこへ行くのだろうな」
 唯湖もまた、その会話に混ざってくる。
 恭介の道は、恭介自身によって肯定されてきたものじゃない。
 彼の道は、いつも理樹と鈴の笑顔があって、初めて肯定されるものだったから。
 だが、理樹と鈴がそれぞれの道を歩き出した今、その標を失った恭介は、これから先どう歩けばいいのだろう。
「棗先輩は、そのことに気づいているのですか?」
「わからん。だが、気づいていようといまいと、あいつは覚悟を決めて理樹との対決に臨むつもりだ。自分の為に、な」
 謙吾は外を見る。
 対決の舞台になるだろう、グラウンドを。
「・・・あいつも、そろそろ自分の為に歩くべき時だろう」










 そして、再戦の時が来る。









 マウンドに立つ恭介。
 バッターボックスに入る理樹。
 どちらも、無言。
「・・・あ」
 クドがふと、空を見上げた。
「雨、です・・・」
 だが、その場にいる誰も、動かない。
 じっと、二人を見つめている。
 やがて、ゆっくりと恭介が腕を振り上げた。
 理樹もまた、構えに力を込める。
 キャッチャーとしてミットを構える真人は、思わず唾を飲み込んだ。
「ふっ!!」
 短い気を吐くような呼吸音の後、恭介が放った球は、真っ直ぐに真人のミットに納まる。
「・・・ストライク」
 謙吾がカウントを取った。
「・・・恭介」
 理樹が小さく呟く。
 雨が勢いを増し始める。
 真人は、恭介にボールを返した。
 それを受け、恭介はまた構える。
 再び、恭介が腕を振り上げた。
「はぁっ!!」
 だが、今度は。
「っ!」
 甲高い音。
「打った!」
 唯湖が打球の行方を追う。
「ファールですわ・・・」
 同じく、とっさにボールを追った佐々美が、結果を呟く。
「・・・何で、リキは打ったのですか? 恭介さん、もう大丈夫なのは間違いないのに」
 呆然とした様子で呟くクドに、小毬が視線を外さないまま、答える。
「恭介さんが、真剣だからだよ。真剣に向かってくるから、理樹君も真剣に向き合うの。・・・そうしなきゃ、いけないんだよ」
 謙吾が予備のボールを恭介に投げ渡す。
「はっ!!」
 鋭い息と共に、恭介がまた投げ放つ。
 対する理樹もまた、その球に当てていく。
 打球は白線を割る。
「ファール!!」
 謙吾の声。
 大雨に遠雷が混じり始める。いつかの光景と、何かが重なる。だが。
 あの時とは違う。コールドなど、存在しない。
 意地の勝負。
 また腕を振りかぶる。
 白球がその手から放たれる。
 バットが走る。
 甲高い音。
「ファールだ!」
 審判の声。
 繰り返される。
 何度も。何度も。
 雨はどんどん強くなっていく。
 それでも、誰も動かない。
 もう何度目になるかわからない、甲高い音が響く。
「・・・また、ファール」
 葉留佳が呆然と、言う。



(こんだけ強い雨の中で、それでも確実に当ててきやがる。気の抜けたボール投げちまったら終わりだな)
 あの時も、こんな雨だった。
 大雨のマウンドの上で、恭介は理樹を見据える。
(・・・さすがだぜ、理樹。俺がいじけてる間も、お前は前に進んでたんだな)
 コールドゲームという言葉から始まった、恭介の過ち。
 同じコールドゲームという言葉から与えられた、理樹が課した試練。
(なあ、理樹。お前、気づいてるか?)
 心のうちだけで語りかける。
(お前がやってることは、本当なら俺があの時に、お前にやらなければいけなかったことだ)
 あの大雨の中で交わされた勝負。
 そして、恭介の手によって繰り出されたイカサマ。
 激昂する謙吾の声。
 そして、それすら踏み躙って突きつけた、言葉。
 まだ弱かったころの理樹から、全ての選択肢を奪い、絆を奪い、過酷な現実だけを突きつけて、立ち向かえと、それだけを望んだ自分。
 焦る余りに強引に事を運び、そして結果、理樹と鈴は逃げ出して、そして、その果てで、壊れたこと。
(お前は、本当にとっくの昔に俺を超えてた。やっと認められる)
 これは、今こうして理樹によって起こされた勝負は、違う。
 自分もまた、現実を突きつけられた。縋る先を奪われて。
 だが、理樹が奪って行ったのは名前だけだった。
 絆は残っていた。過酷な現実を突きつける一方で、やさしい現実も残っていた。
 全て捨てて逃げる前に、もう一度立ち向かえるチャンスを残した。
(あいつらに助けられて、俺はまた、お前の前に立てた。俺は多分、あの時にこうするべきだったんだ)
 犯した過ちに対する、どうするべきだったのかという、その答えがここにあった。
 理樹が意図したかどうかなんてわからない。わかる必要も無い。
 大事なのは、自分がどう感じたか。今この場をどう思うか。
(そうだ、今はただ、俺は)
 腕を掲げる。
(俺は、お前を―――)



(・・・球威が変わったわけじゃないのに、どんどん重くなってくる気がする)
 バットを握り直しながら、理樹は思う。
(気持ちが篭ってるってことなのかな。・・・気を抜いた瞬間討ち取られそうだ)
 目の前に立つ男を見て、理樹は唾を飲み込んだ。
(やっぱり、恭介は凄いね)
 そうして、思い返す。
 手を引くことを許されない自分が嫌だった。
 自分が本当に救われたことを、返してあげられない事が悲しかった。
 目の前でどんどん暗闇に閉じこもろうとする恭介に苛立った。
 どれが正解だったのか判らない。
 どれも間違いな気がするし、正解の気もする。
 ただ、判っていたこと。
 恭介は、これから先、本当に自分の足で歩いていかなければいけないということ。
 どんな壁にぶつかっても、超えていくか逃げるかは、恭介が決めなければいけないのだということ。
 どんなに救いの手を差し伸べても、その道を行くかは恭介が決めなければいけないのだと。
 それを、今ここで気づかせなければいけないと。
 だから。
(だから、せめて僕が、その最初の壁になろう、そう思ってた)
 それが、ずっと手を引いてきてくれた兄貴分に対して、弟分として送れる最初で最後の叱咤だと。
 そう思って、ここまできた。
 そして、恭介はここまで辿り着いてくれた。
 本当なら、もうそれでいい。黙って打ち倒されるだけで、全て終わる。
 でも。
 思ってしまった。
 目の前にいる、ずっと憧れてきた、追いかけてきた一人の男。
 今まで本気でぶつかり合う事の無かった、棗恭介という存在。
(思ってたのに)
 以前なら、畏怖しかなかった。
 今は、不思議なくらい胸が躍っている。
 自分が憧れていた存在が、今本気で自分に向かってくる。
 だから、望んでしまう。
(そうだ、僕は今、この本当の恭介を――)
















―――――――――――――――――超えたい・・・!!















「・・・笑ってるな」
「うん」
 鈴が呟き、小毬が頷く。微笑んで、続けた。
「楽しそうだね」
「うん」
 鈴も頷いた。
 見守っていた少女達が、顔を見合わせて頷きあった。
 それぞれ息を吸い込み、
「きょーすけ君、ふぁいっとー!!」
 葉留佳が。
「直枝さん、ファイトですわ!!」
 佐々美が。
「恭介氏、気合を見せてもらおう!」
 唯湖が。
「直枝、ギャフンと言わせてやりなさい!」
 佳奈多が。
「恭介、あんたは私が倒すんだから、負けるんじゃないわよ!」
 あやが。
「リーキー!!」
 クドが。
「お二人とも、頑張ってくださいっ!」
 美魚が。
「棗先輩、あと一息です!」
 みゆきが。
「理樹君、恭介さん、二人ともがんばってー!!」
 小毬が。
「理樹! 恭介! どっちも、勝てえええええ!!」
 鈴が。
 


「・・・ははっ」
 笑った。目に熱いものを感じて、閉じる。周りからは大雨が誤魔化してくるだろう。
「ああ、そうだったな。そうじゃないか、当たり前だ・・・」



「ふふっ」
 どっちも頑張れとか勝てとか、やっぱり無茶を言うな、と思う。
「でも、そうだね。こういうのが・・・」




 そう、これが、リトルバスターズなんだ。




 閉じていた目を、恭介はもう一度開いた。
 真正面から、理樹と向き合う。
 恭介が、振りかぶった。
(これが、最後・・・!)
 理樹が、バットを握り締める。
(最後の、一球・・・!)
 意図せず、思考が重なる。
 雷光が走った。
 一瞬遅れ、恭介が投げる。
 理樹は全力のフルスイング。
 雷光に遅れて轟く雷鳴。






「・・・どうなった?」
 唯湖が呟く。
 雷鳴に掻き消されたのか、甲高い音も、ボールがミットに収まる音も聞こえなかった。
 からん、と、理樹の手からバットが落ちる。
 恭介の右手が、だらりと下げられた。
「・・・・・・理樹、恭介・・・?」
 鈴が不安げに、一歩。
 ゆっくりと、真人が立ち上がった。
 その右手が、左手のミットに進み、そして。
「ストライク!! バッター、アウト!!」
 謙吾の声が上がった。真人が、ミットに納まっていたボールを全員に見えるように掲げてみせる。
「・・・・・・っ!」
 恭介がマウンドの上で拳を固め、次いで、空を振り仰いで。


「おおおおおおおおおおおおっっっっっしゃああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」


「きょーすけええええええええええ!!」
「うおおおおお! 恭介ええええええ!!」
「やったああああああああああああ!!」
 仲間達が口々に歓声を上げて、マウンドに駆けていく。
「うわ、馬鹿、いてえよお前ら!」
 その中心で揉みくちゃにされている恭介が、声を上げて笑っている。
 理樹は疲れて座り込んだままそれを見て、笑う。
「・・・負けちゃったね」
「・・・小毬さん」
 いつの間にか隣に来ていた小毬に、理樹は驚く。
「あっち、行かないでいいの?」
「うん、私は、こっち」
 大雨で濡れた顔で、でも小毬は微笑む。
「お疲れ様、理樹君」
「・・・うん、ありがと」
「手、見せて」
「え?」
「血だらけだよ?」
 言われて初めて、バットを握りすぎて皮膚がボロボロになっていたことに気づいた。
「・・・うわ、気づいたら急に痛くなってきた」
「もー」
 それと同時に、
「うわ、恭介右手血だらけじゃねぇか!」
「あ、ほんとだ・・・」
「爪が割れているのではないですか?」
「この馬鹿! さっさと気づけ!」
 向こうからも大騒ぎの声が聞こえてくる。
 小毬は珍しく呆れた顔になって、理樹に一言。
「二人とも、無茶しすぎだよ〜?」
「ごめん」
 それでも、理樹はどこか嬉しそうで。だから、小毬も仕方ないなぁ、と笑う。
「絆創膏じゃ間に合わないね。保健室、いかないと」
「うん、でも、その前に・・・」
 そう言って、それから理樹は立ち上がった。
 疲れでよろめきそうになって、小毬に支えてもらって。
 そうして、マウンドにいる恭介に近寄る。
「理樹」
「恭介の勝ちだよ。僕は恭介に何をすればいい?」
 恭介は苦笑する。
 望みなんて決まってる。
「リトルバスターズに、戻りたい」
 迷いなんて無く、理樹に告げる。
「うん」
 頷いて、理樹は血だらけの右手を恭介に差し出した。
「こんな手で申し訳ないけど・・・、お帰り、恭介」
「・・・・・・そんなん、お互い様だ。ああ、ただいま」
 涙ぐみそうになって、恭介はそれをごまかすように、理樹のその手に、同じく血だらけの右手で、手刀を落とした。
「あたっ」
「へへっ」
 そこには、今までどおりの理樹と恭介がいた。
 そうして、また仲間達がそれぞれに歓声を上げたのだった。



 恭介の復活祝いだ、と騒ごうとする真人と謙吾だが、佳奈多が「疲れきった上に雨に濡れてるんじゃ風邪を引く」と諌められて。
 全員雨に濡れているのに気づいて、復活したリーダーは「全員しっかり体あっためて、早めに休め」と令を下し。
 それぞれ、解散する。
 恭介と理樹は着替えてから改めて保健室へ。
 理樹の手当ては小毬が、恭介の手当ては、美魚の指導を受けながら、鈴が一生懸命やっている。
 それを、時々走る痛みに顔を引きつらせながら見守りつつ、恭介は美魚に声をかけた。
「西園」
「何でしょう?」
「俺の望む孤独も、やっぱここにあったよ」
「そうですか」
 答えられなかった問いに、答えを返す。
 鈴はそれを「意味がわからん」とばかりに首をかしげる。
 それとほぼ同時に包帯の結び目を整える。
「これでいいか?」
「ええ、問題ないでしょう」
「さんきゅーな、鈴」
「ふん」
 恥ずかしそうに目をそらして、鼻を鳴らす鈴。
「鈴ちゃん、そっちは終わった?」
「ん、大丈夫だ。理樹の手当ては終わったのか?」
「終わったけど、理樹君寝ちゃった」
 一瞬だけ、まさかナルコレプシーかと思って、ベッドの方を見る。
 椅子を恭介が使っているせいで、ベッドに座って手当てを受けていた理樹は、そのまま倒れこむように眠っていた。
 ただ、その寝顔は別に苦しそうとか言うこともなく。
「よほど疲れていたのですね」
 美魚が苦笑を浮かべながら、そう言った。
「・・・俺が不甲斐ないせいで、迷惑かけちまったな」
「そーだぞ馬鹿兄貴。いきなりいっぱい迷惑かけすぎだ。やるなら少しずつしろ」
「・・・はは、違いない」
 鈴の言葉に、恭介は笑う。
 全くその通りだ。
 困ったことがあったらその度に相談すればいい。たったそれだけ。
「ふあ・・・」
 恭介も欠伸をする。
「恭介さんも眠い?」
 小毬に問いかけられ、恭介は苦笑する。
「ああ。さすがに疲れた。理樹はこのままここで寝かせといてやってくれ。俺は、寮に帰って寝る」
 三人に後ろ手に手を振って、恭介は保健室を出た。
 それに、最後に向き合わなければいけないものが、まだ残っていたから。







 残滓の世界。
 その日の夜の夢は、あの教室の前から始まった。
 ふと思う。
 あの時出せなかった答え。いつから、この夢を見ていただろう。
 今度は、しっかりと答えが出せた。
 クロの世界を垣間見た時からだ。それから、この夢はだんだんと恭介を呼び続けた。
 声は聞こえない。
 恭介は、ドアを開く。
 弾かれることも無い。
 その教室の中に、たった一人だけ、生徒がいた。
「・・・・・・理樹?」
 生徒は理樹の姿をしていた。
 だが、理樹じゃないと思った。
「やっと来たね、恭介」
 理樹じゃない理樹は、理樹の声で、姿で、恭介に声をかける。
「お前は・・・誰だ?」
「さぁ、僕にも誰か判らない。たまたまこの形、この声になっただけ」
 少年は苦笑する。
「不思議だよね。残された思いが集まると、僕になるんだよ。直枝理樹という、少年の姿に」
「お前が、あの世界の中心だったからな」
「そうかもしれないね」
 この少年は、欠片で動く人形だ。
 だが、何と思いのしっかりした人形だろう。
 それだけ、残された思いが強かったのか。
「俺をここに呼んだのは、お前なのか?」
 恭介の問いに、少年は微笑む。
「僕じゃない。でも、僕でもある」
 静かに、ただ佇む少年。
 はぐらかすような言葉に、恭介はため息をつく。
「・・・それも、俺が気づかないと駄目だということか?」
「さぁ、どうだろう」
 少年はあくまでも答えない。
「僕は答え合わせをするだけ。恭介の持ってきた答えは何?」
 恭介は、考える。
 自分をここに呼びつけたもの。
 自分の心の持ちようで、この世界の悪意は大きく減っていった。
 今もまだ、少女達の悲しみの声は聞こえているのに。
 それは、ただ悲しいと言うだけだ。
 誰も憎んでなんかいない。
 憎しみをぶつけてきたのは。
「・・・・・・そうか」
 恭介は、少年の目を見て、言う。
「俺をここに呼んだのは、俺自身か」
 少年は笑う。
 そうして、どこからか青く輝く光の球を手のひらに乗せた。
「・・・正解」
 それは、恭介があの世界に捨ててしまった思い。
 あの世界で、理樹と鈴を生きて返すために、何度も何度も捨て去ってきた罪悪感。
 仲間を傷つけることへの痛み。踏みにじった記憶への後悔。どこまでも冷酷になれてしまう自分への、絶望。
 それを、全て理樹と鈴の為だという大義名分で、切り捨てて、捨て去ってきた。
 その光の球は、そんな恭介が捨て続けてきた罪悪感の塊。
 恭介自身が育ててしまった、自分自身への悪意。
「・・・返して貰っていいか、それ」
「抱えていける覚悟はあるの?」
「俺だけじゃ、潰れるだろうな」
 恭介は笑う。
「だが、俺にはリトルバスターズがいる。俺は一人じゃない。辛いときには、支えてもらうさ」
 それが、恭介の出した強さの答え。これから先の自分の歩き方。
 その答えに、少年は嬉しそうに笑う。
 そして、その青い光を恭介に手渡した。
 触れた瞬間、心がひどく痛んだ。だが、耐えていける。
 これを抱えていかなければ、自分は前に進めないのだから。
 光の玉を胸に抱いて、恭介は顔を上げる。
「・・・なぁ」
「何?」
「この世界のマスターは、誰なんだ?」
 少年は苦笑した。
「言ったよ。僕は答え合わせをするだけだって」
「ああ、そうだったな」
「マスターは自分がこの世界を作ったことに気づいてもいない。気づいてたら、恭介を呼ぶことなんて無かった。呼ばせなかっただろうね」
「・・・そうか」
 忘れられていくはずの思いの守られている場所。
 恭介は、少年に背を向ける。
「・・・お前は、さ」
「今度は何?」
「お前は、やっぱり理樹なんだろう?」
 その問いに、少年は答えない。
 恭介は背を向けているせいで、その顔を見ることができない。
 だが、振り返りはしなかった。
「どうだろうね」
 恭介の捨てた思いがここにあるなら、あの繰り返す世界で理樹からこぼれ続けた思いもまた、きっとここにある。
 それが、少年の正体。
 恭介はそう思った。
 だが、少年は答えない。
 それは正解ではないということなのか。
 それとも、単純に答えたくないだけだったのか。
「行ってらっしゃい、恭介」
 その言葉に見送られて、恭介は夢から覚めていく。


 どこにも憎しみなんて無かった。
 この今の礎になった思い達は、満足感と、ほんの少しの未練だった。
 それを歪めていたのは、自分自身。
 夢に対しても。現実に対しても。
 いつからか、歪めて受け取っていた。
 それが、きっと弱さだった。
 仲間達はずっと、自分を仲間だと言い続けてくれたのに。
 強くあろう。
 仲間達と共に。仲間達より、一歩先に旅立つ者として。








 それが、恭介が見つづけた、長い悪夢の終わり。












「恭介はね、僕の憧れなんだ」
「うん」
 早寝した分だけ少し早く目が覚めて、一足先に学食へ向かおうとした恭介は、その声に足を止めた。
 中庭に理樹がいる。小毬と何か話していることに気づいて、恭介はなんとなく身を隠した。
 本当になんとなくだ。
 どうやら結構恥ずかしい話のようだから、後で突っついてからかってやろうとか、そんな程度の動機だった。
「ずっと、あの背中を追ってきた。『向こう側』の最後だって、恭介がやるだろうことをなぞっただけ」
 理樹の独白を、小毬は黙って聞いている。
「それじゃ、いけないんだって思い知らされたのは、あの事故の最中かな」
「・・・バス事故?」
「うん。皆を助けたいって、そう願っても、僕には道を示してくれる人はいなかったから」
 そうして、理樹は泣き笑いみたいな顔を浮かべる。
「ほんとはね、今だって夢に見る。誰も助けられなかった未来、鈴と二人だけで生きていかなければいけない未来の、夢を」
 その声が震えている。
 思わず声をかけそうになった。
 だが、それより早く、小毬の手が理樹の包帯まみれの手を包む。
「大丈夫だよ。皆、ちゃんといるよ」
「・・・うん。判ってる、大丈夫」
 小毬に微笑んで、理樹は続ける。
「鈴と、淋ちゃんのことも、きっかけだった。あのことで、決めたんだ」
 理樹は空を見上げる。
「・・・恭介とは、違う道を行こう、って」
「理樹君・・・」
「どんなに憧れても、僕は恭介にはなれない。だから僕は僕として、自分の未来を探そうって。事故の時からずっと思っていたことに、やっとあの時決意できた」
 理樹が呟いた「負けてられないな」という、小さな言葉。
 小毬も、それを覚えている。
「僕は、僕として強くなる」
 もう一度、繰り返す。
「でも、恭介に憧れた自分も僕なんだ。その僕がいたから、僕はここにいる。いられる」
「うん」
「今でも、憧れたままだよ。たぶん」
「大丈夫、知ってるよ」
「そっか」
 優しく相槌を打ってくれる小毬に、理樹は微笑む。
「判るかな? 憧れって、意外と複雑なんだよ」
「そうなの?」
「うん」
 小毬が疑問符を浮かべて、理樹は笑いながら、続ける。
「追いつきたい、追い越したい。今はそう思ってる。でも、ずっとその光を見ていたいって気持ちもあるんだ」
「・・・あ、そっか。うん、なんとなく判るよ」
 そうして、小毬は微笑んだ。
「そっか、そうなんだね。理樹君がどうして、恭介さんに何も言わなかったのか、判った気がする」
「・・・そう?」
「うん」
 小毬は少し得意げに指を立てて、言った。
「理樹君は、違う道を歩くって決めても、憧れていた恭介さんには、しっかりと歩いていて欲しかったんだね」
「うん。多分、そうなんだと思う」
 物陰にいた恭介は、聞いてしまったことを後悔した。
 聞いてしまっていい話じゃなかったのかもしれない、そう思って。
「本当に憧れた人なんだと、僕が自慢できる恭介でいて欲しいんだろうなぁ。多分、これからもずっと」
 憧れた人だから。追いつきたいのと同じくらい、追いつけない存在であって欲しい。
 違う道を歩いて、もう追いつけなくなっても、隣を見ればそこにいつもの不敵な笑顔があってほしい。
 その思いを、こんな形で聞いてしまって、恭介は気まずいのと、嬉しいのと、半分半分で。
 気づかれないように、その場を離れようとした。
「でも、理樹君はやり方が強引過ぎますっ」
「あ、いや、はい、ほんとに、おっしゃるとおりです」
「理樹君、正座しなさいっ」
「は、はい」
「もー、はい、はちゃんと言うのっ」
「はい、わかりましたっ」
「ほんとーは、見ててはらはらしてたんだからね! 理樹君は人の気も知らないでー!」
「うう、本当にご迷惑をおかけしました・・・」
 後ろから聞こえてきたそのやり取り。
 改めて見ると、中庭の隅っこで、理樹が正座させられて小毬に怒られている。
 あれだけ強く見えた理樹も、小毬には頭が上がらないのか。
 そう思うと、余計に何だかおかしかった。
 必死で笑いを堪えながら、そして、改めて思う。
 強くあろう、と。
 そして、仲間達を頼れる自分であろう、と。
 そうして、仲間達が誇れる自分でありたい、と。
 だから、まずは。
 恭介は空を見上げる。
 昨日の雨が嘘のように晴れ渡っている。
 恭介は笑った。
「よし、まずは、就職決めちまうか!」
 自分の未来は、それからでもきっと探せるから。
 だから、行こう。あの悪夢の遥か先へ。









 それから数週間後。
 恭介は今まで決まらなかったことが嘘のように内定をいくつも叩き出して、仲間達に向けて不敵に笑って見せるのだが。
「ま、これが俺の実力ってやつさ!」
 それはまた、別の話。









Episode:02 棗 恭介 「残滓の世界」
            Mission Complete!

To be continued next Episode...

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